WifeCenteredDesignで妻の課題解決を試みた話

WCD(Wife Centered Design)で妻の課題解決を試みた話

これは フェンリル デザインとテクノロジー Advent Calendar 2019 25 日目の記事です。

HCD(Human Centered Design)のプロセスにのっとってプロジェクトを回す」
最近では、フェンリルでも当たり前のように行われていることである。

HCDの詳しい説明は割愛するが、ざっくり言うと、提供者側やシステム側ではなく、ユーザー側の要求事項に従ってサービスやシステムをデザインする手法である。

要求事項を見つけるために調査したり、観察したり、分析したり、設計と評価を繰り返したりする必要がある。

ユーザーの立場に立つことで、ユーザのほしいものを提供することができる。はずである。

さて、ここで疑問が出てくる。

全く赤の他人、顔も名前も知らない人たちのほしいものが、HCDのプロセスにのっとれば提供できるのであれば、なぜ、私は10年も(結婚前を含めると20年以上!)連れ添っている妻の思考がこれっぽっちも理解できないし、欲してるものをプレゼントすることすらできないのか。好きな食べ物や音楽、1日の過ごし方、口癖など様々なことを知っている、にも関わらずだ。

夫は妻のことがよくわからない。

妻のトリセツみたいな本がベストセラーになるくらいだから、世の夫は妻のことをわかっていないのだろうし、妻も夫にわかってもらいたいと思っているのだろう。

家事一つとってみても、良かれと思ってやったことが裏目にでることがしょっちゅうある。

例えば、床以外に置かれている"ゴミのようなもの"をゴミと思って捨てると、大抵裏目にでる。ベルマークを切り取る前、だったり、娘が幼稚園の工作で使う、だったり。

そのようなトラップは日常に溢れている。

朝、買いたての食パンがキッチンに置かれているからと言って、それをそのままトーストするのも危険だ。戸棚や冷蔵庫の中に前日の残りがある可能性は捨てきれない。そうでなくても、冷凍庫のものを先に食べなければならないかもしれない。新しいパンはそのまま冷凍庫行きになることも多い。

まあ、そんな我が家特有のあるあるトラップ(トラップと思っているのは自分だけというのも理解している)のことはどうでもいいのだけど、結局のところ、妻が「家事や育児でイライラしている」という状況を解決しようとして「余計にイライラさせる」という失策を Day by Day、犯しているわけである。

こんな感じで、WCD(Wife Centered Design)のプロセスにおいて、アプローチと検証を繰り返し続けているわけだが、全くもって解決には至っていないし、その兆しすら見えない。

そもそも課題が解決されるとはどういうことか

世の中には数多のサービスがあり、いろんな課題や痛みを解消してくれる。家事や子育ての大変さを軽減してくれるサービスもたくさんある。ネットで生鮮食品を買えるサービス、AIが献立を考えてくれるアプリ、家事を夫婦で分担できるように管理できるアプリなど例を出せばキリがない。

でも、一つ一つは便利かもしれないし、そのサービスがどれほど課題をどんぴしゃで解決してくれるものだったとしても、次から次へと生まれては消えていく課題に対して、毎回サービスの利用を検討したり、課金するか悩まされたりすることは、もしかするとそれ自体が課題になりやしないかとも思う。

小さな課題は他の小さな課題と複雑に絡み合っている。小さな課題を解決しても、他の課題が顕在化する。地雷はそこら中にある。

ひたすらスライムを倒し続けても、ラスボスに辿りつくことはできないのと同じだ。スライムは無限に現れ続けるし、ラスボスに辿り着くためにはラスボスを目指さなければならない。

サービスの本質は課題を解決することではない

我々がペルソナを立てる時、「ペルソナはどんな価値を得たいか、どんな自分になりたいか」を最も重視する。女性だとか30代後半だとか、そんなものはペルソナのリアリティを高めるためのただの付加情報に過ぎない。ビジネス側はどのような価値が提供できるか、ユーザーはどんな価値を得たいか、この接点を見つけることがサービス開発のキモであり、ペルソナはこの指針である。

通常、課題を解決すること自体は、プロセスであってゴールではない。課題を解決することによって、自身が理想とする状態に辿り着くことこそがユーザーのゴールであると言える。

つまり、我々が提供するサービスの本質は、ユーザーの課題を解決することではなく、ユーザーが課題を解決することによってユーザー自身がサービス利用前に思い描いていた状態、理想の自分を手に入れることである。

HCDやUXデザインに精通している人にとっては、当たり前の話だ。しかし、そうであったとしても、これは見失いがちなことなのである。

課題が見えすぎると、課題を解決すること自体に目が行きがちだが、サービスは、純粋に課題を解決することだけではなく、そのサービスを使うことによって課題が解決された先の理想の自分を見つける手伝いもしなければならないということだ。

例えば、高級ブランドは純粋に品質が高いだけではなく、有名モデルなどのビジュアルツールを駆使して、なりたい自分の姿を想像しやすくさせてくれる。このバッグを持って街中を歩いている自分、キラキラ輝いている自分、それは、単に容量が大きいとか持ちやすいとかといったバッグの持つ純粋な効能だけではない、未来を想像させる力がある。

ブランディングは、そういう意味では、この上なく重要である。ただ語るだけでなく、顧客やユーザーが具体的に未来をイメージしやすいように、様々なビジュアルツールを駆使してわかりやすくシンプルに訴えかけていかなければならない。

なんてこった。課題が見え過ぎていたことによって肝心なことを忘れてしまっていたではないか。

さあ、クリスマスだ。

今日はクリスマスである。自分の気づきを最大限に活かしたい。

昨年は某社の風量の強いヘアドライヤーをプレゼントした。通常のドライヤーより髪が3分(我が家調べ)早く乾くという効果。これは今考えると課題に対する純粋なアプローチであったと言える。

結局、その3分は今まで妻が放置していた他の課題に当てられただけで、結果的には課題の総量は減らなかった。3分の時短がもたらした先の状態を考えられていなかったわけだ。これなら、髪に潤いを与えてくれる他社のドライヤーの方がよかったのかもしれない。

悩みに悩んだ挙句、今年はニットを送ることにした。妻の好きなブランドのものだ。

喜んでくれればいいなと思いつつ、妻が喜んでいる顔を想像しながら、いい夫たる理想の自分がそこにいる。

ああ、これは、ひょっとして妻のためといいながらも、自分のためのクリスマスプレゼント選びだったのではないかと、ふと思う。

そして、また振り出しに戻っていることに気づくのであった。

今年のクリスマスプレゼントのニット(の箱)

(プレゼント、一応、喜んでましたけどね)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?