デザイナーが書くということ
デザイナーは意外と文章を書くことが多い職業だ。たとえばイベントのポスターには、キャッチコピーとか開催要項などのテキスト要素がけっこうある。そしてほとんどの場合それらは、ポスターをデザインする前にすべて用意されているわけではない。
グラフィックのイメージを固めつつも、ここにはこういう情報が入るだろうな、という妄想...いや予想をもとに、デザイナーがテキストを打ち込んでいくのが実情だ。最終的にはライターが用意したテキストに差し替えられるのだとしても。
デザイナーは絵を描く職業だ、と思っていなくても、デザインのスキルアップのために文章を書く練習をする人はあまりいない。しかし私たちデザイナーが、情報や意思の伝達や対話を促す「 言葉の道具 」もまたデザインするのだと捉えるなら( ※ 1 )、仕事の半分がテキストを書くことだったとしても、なんの不思議もないのだ。
ダミーテキスト
lorem ipsum ( ロレム・イプサム ) という、デザイナーには著名なテキストがある。多少バリエーションがあるものの、だいたいはこうだ。
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これはラテン文字圏でのグラフィックデザインにおいて、まだ出来上がっていない文章の代わりに差し込まれる、いわゆるダミーテキストだ。
ダミーだからといって「 ダミーテキストダミーテキスト... 」みたいな適当な繰り返しを入れてしまうと、文字が模様のように見えてしまう。そこで lorem ipsum ( ロレム・イプサム ) のように、程よくランダム性があり、かつ個性の薄い文字列を利用するのだ。
この lorem ipsum ( ロレム・イプサム ) は、 Adobe のグラフィックデザインツールにおいて、サンプルテキストの割付機能などで呼び出すことができる。ちなみに日本語の場合は夏目漱石の『 草枕 』の文が挿入される。あの「 山路を登りながら、こう考えた 」で始まる有名な冒頭だ。私としてはちょっと意味性が強い気がするのだけど。
デザイナーは、それがポスターであっても、Webサイトであっても、ソフトウェアであっても、まだ何が入るか判然としない時から、テキストエリアを設定する必要があり、そこにダミーテキストを流し込む。だからそういった使い方を想定して、このような機能が用意されているのだろう。
しかしこのダミーテキストというものを、ほとんど使用しないデザイナーもけっこういる。かく言う私がそうだ。なぜなら頭に浮かんだビジュアルを具象化するためにグラフィックツールを操る時、そこにあるテキストもなんとなく一緒に現れるからだ。たとえばそれが SNS のアプリケーションなら、利用者が投稿した何らかのメッセージや行動の痕跡が、テキストとしてイメージとともに思い浮かぶ。
そうすると、だんだん楽しくなってしまって、架空のテキストがいくらでも書けてしまう。特に UI のデザインでは、それを使う人が書く( だろう ) メッセージを書いていく過程で、ビジュアルや設計の方も影響を受けて変わってしまうこともある。UI のコンポーネントに表示される動的なテキストもまた UI の一部で、制作過程においては、それがコンポーネントの繋がり方自体を変えていったりもするのだ。そういう意味で私は、ダミーテキストのままではデザインしづらい。
一度徹底的に具象化した上で抽象化するのはデザインの常ではあるが、これには少し難点がある。いざ出来上がったデザインカンプを見ると、どこがアプリ埋め込みで、どこが API 返却文言なのか、どこが仮でどこが FIX しているのか全く見分けがつかない。
困ったものだな、と思いつつ最終的に「 山路を登りながら、こう考えた 」に書き直したりすることもある。どこが仮なのか分かるのは自分の他にはいないから。
ダイアログ
Dialog は “ 対話 ” という意味の言葉だ。しかし UI デザイナーである私は、ダイアログといえば忌々しいモーダルダイアログを思い浮かべてしまう。あの不快な感覚はどこからくるのだろうか。もちろん、画面が急に塞がれて、コントロールを奪われる煩わしさもあるが、なんだか物語の途中に乱入してきて説明をはじめるおせっかいな登場人物のような印象を受ける。
Web サイトには、たとえばコーポレートサイトのように利用者が受動的に接するコンテンツが主であるものと、Web アプリケーションのように、能動的に接するコンテンツが主であるものがあり、それぞれ使われているテキストの立場が異なる。
受動的なコンテンツでのテキストは、カタログやポスターなどの印刷物と同様、サービス提供者側から利用者への語りかけになっていることが多い。
一方で能動的なコンテンツでのテキストは、利用者の言葉を使う。 [ 完了 ] も [ 編集 ] も主語は利用者だ。これは iOS や Android などのネイティブアプリケーションにおいても同様である。
私たちがソフトウェアを使用する時、ソフトウェアに何かを命令し、行為を代替してもらっているという意識はない。だからカーソルやボタンを通じてシステムとインタラクトする時、それらに付加されているテキストは自分自身の言葉になる。
そんな中で、モーダルダイアログやアラートは例外的にサービス提供者やシステムからの語りかけになっている。それも、使っていると意識しないレベルまで深くシステムとインタラクトしている最中に突然割って入り、そちらの都合を一方的に話はじめるのだ。これを不快に思わないひとは少ないだろう。
もちろん受動的なコンテンツであることが多いコーポレートサイトでも、検索や問い合わせフォームなどは能動的な要素を含んでいるし、能動的なソフトウェアインターフェースであっても、お知らせや規約など、例外的にサービス提供者からの語りかけが必要なこともある。
だからこそ、これらはとても混同されやすい。そしてうっかり [ ご確認 ] とか [ お問い合わせ ] なんてラベルがつけられてしまう。その主語は誰なのか、コントロールは誰にあるのか。デザイナーはその語感が発する差異に、気づく感性を持っていなくてはならないだろう。( ※ 2 )
代替テキスト
デザイナーが書くのは、目に見えるテキストだけではない。音声読み上げや、画像が表示されない時に利用される alt 属性などの、画像の代替テキストもまた、多くの場合デザイナーによって書かれる。
代替テキストは、アイコンの示す内容を端的に知らせたり、写真の内容を的確に描写したりする必要があるため、慣れていないと書く時につい手が止まってしまう。現象を言語によって表すという行為は、けっこう奥が深い。
客観性は必要だが、主観を完全に消してしまうと画像に含まれる意図が伝わらなくなってしまう。また、テキストや読み上げ音声で世界を捉えるとき、表記のゆれは表象のゆれになる。けれど語感に配慮するセンスを持たなければ、その違和感に気づけない。
私は代替テキストを書いていると、なんだか俳句を詠んでいるような気持ちになる。そもそもこの写真は代替テキストの内容が分かる画像になっているのだろうか、と気になって写真の撮り方自体変わることだってある。
alt 属性はアクセシビリティのアルファでありオメガだ、と言った人がいたけれど、アクセスの本質をとらえようとすると、現象のコーディングであるこの行為にかえってくる、というのは何だか分かる気がする。
ドキュメント
プレゼンテーションを行う時、デザイナーはただグラフィックを見せて黙っていれば良いのではない。たまにそういうことも無いわけではないが、ほとんどの場合、どういうコンセプトでどういうアプローチを行ったか、言葉をつくして、そこにいる人達に共有しなければならない。
それはクライアントへの提案書だったり、エンジニアと共通認識もつための設計書だったりする。目頭が熱くなるような思想を詩的に表現することもあるし、淡々と正確な数値を含んだ言葉を紡ぐこともある。
たとえ精巧なプロトタイプがあったとしても、驚くくらい、デザインはほとんど言葉によって伝えられる。
資料に書く言葉、メールに書く言葉、チャットに書く言葉、コメントに書く言葉。それぞれフォーマットは違うけれど、これらの言葉がなかったら、複数人でプロダクトを制作していくのは困難だろう。
デザインに関する知見を広く伝える場合にも、テキストを書く必要がある。数え切れないほどの、デザイナーによって書かれた書籍、ネットの記事、論文。その巨人の肩にのってきた私たちはまた、他の誰かを支援するために、たくさんの文章を書くことになるだろう。
デザインのドキュメントは、まるでバトンのように未来に渡されていく。
SNS
Twitter や Instagram、Facebook などの SNS を利用しているデザイナーは多いだろう。なんとなく気づいたことを書き留めたりする日常的なつぶやきから、ある程度の長文、読書記録、用途は様々だけれど、気がついたら毎日何かを書いている。
SNS での発信は、自分だけが見られる場所に個人的に書くのとは違う。それは何らかの意図をもって、自分の外に出されたものだ。
しかし SNS は、たとえば会社の公式ブログなんかとは異なり、パブリックとプライベート境界が曖昧なところにある。だからまだ完全に加工されていない、荒削りなテキストを垣間見ることができる。制作途中でキレイに言語化されていない思考が、むき出しのまま投下されている。
いろんな人の膨大な試行錯誤の過程や個人的なつぶやきが、こんなにも世界に露出していて、何千万という人々に届く可能性を持っているような時代が、今まであっただろうか。
その影響をうけて、私たちデザイナーが作るものはどのように変わっていくのだろうか。
イデオロギー
何かを書いて発信するということは、自分の思想を世に投げかけて問うことだ。特にデザイナーが、デザインについて書く場合、それは自分のデザインの哲学を表明するという意味がある。そして現在、多くのデザイナーが様々な場所で、自分のデザインについて書いている。私もその一人だ。
沈黙してただ実践することを美徳とする人もいるだろう。しかしだからといって、発信する人を、実践を伴わない虚妄を振りまく者と決めつけるのは待ってほしい。
誰かが傷を負うことを恐れず発信したからこそ、それが今の私たちを牽引するイデオロギーとして開花し、現に私達のデザインの活動を支えているという事実がいくつもあるだろう。特に受託制作の現場においては、だれかが様々な方法でアーキタイプを示し、それが人々に認知されなければ、デザインの実践が成り立たないことが、デザイナーなら痛いほど分かるはずだ。発信する人もまた実践者である。実装なき哲学が無力なように、哲学なき実装もまた無力なのだ。
書くということ
書きたい、という衝動はどこからやってくるのだろう。心の中に種として眠っていたものが、何かの拍子に芽吹くのだろうか。まだ言語化できていない、頭の中を飛来する言葉が、露のように消えてしまわないように、私は衝動的にスマートフォンのテキストエディタを操作して、書き留める。
もしかして、誰かが意図せず仕掛けたものが、時をこえて自分に書かせているのではないかと思うこともある。
書くこと、書き始めることは、少し勇気のいることかもしれない。書いたものの否定は、自分自身の否定にもなるから。
けれど誰かの勇気によって書かれたものはきっと、誰かの書きたいという衝動を呼び起こす。そしてそれらはずっと先まで繋がっていく。
渾身の思いで書いたとしても、人の心に響くまでにとても時間のかかるものもある。しかし芽吹くのが遅いからといって、種をまかなければ花は育たない。Human Centered Design も User Experience もアクセシビリティも、モードレスデザインもみんなそうではないだろうか。
私自身、かつて決心によって紡がれ、勇気をもって投げかけられたインターネット上のテキストを、いつも心の支えにしてきた。だから私も、もしかしたら 10 年後の誰かに届くかもしれない思いを書き綴り、臆することなく世に放っていきたいと思う。
それがデザイナーの私が、書くということの意味だと思うから。
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謝辞
このアカウントで私が記事を書くのは、これが最後になります。
何もいわずに、そっと消えるのもいいかと思っていたのですが、こんないきあたりばったりで、長い文章にも関わらず、毎回読んで下さる方がいたりして、とても励みになったので、せめて今までの感謝の気持ちを伝えたいと思った次第です。本当に有り難うございました。書かれたテキストは人の支えになりますが、それを読む人は書く人の支えにもなりますね。
この記事を含めて、約 1 年半で 14 の記事を投稿しました。たくさん読まれた記事、そうでもない記事、色々ありますが、どれも書いていて楽しかったです。私はプライベートのアカウントでも書いているし、これからも書き続けると思いますが、このアカウントだから書けた文章もあったなあ、と今振り返ると思います。
なお私は書かなくなりますが、このアカウントや、フェンリルのデザイナー達によるマガジンは、これからもどんどん更新されていきますので、どうぞお楽しみに!
書き手:デザイン部 高取 藍
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( ※ 2 )
ちなみに、UI におけるライティングについては、Apple も Google もガイドラインを提供している。
Apple
https://help.apple.com/applestyleguide
Google
https://material.io/design/communication/writing
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