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すべては ラブ・ソング

最近好きな歌がある。ふとした時に口ずさむ、それは切なげな愛の歌。

ラブ・ソングはいつも、誰かを思って作られる。けれどやがて、その誰かを離れて多くの人に愛され、歌われていく。歌う人と聴く人の思いをのせ、時をこえていく。たとえそのメロディを作った人がこの世からいなくなってしまっても。

たくさんのラブ・ソング

そんな風に誰かを思って作られたものが、他の誰かの心を動かしたり、役に立ったりすることがある。

キャット・ホームズ著の『 MISMATCH 見えないユーザーを排除しない「インクルーシブ」なデザインへ 』では「愛と絆の物語」として、いくつかの事例を上げている。

ジョセフ・フリードマンが、発明した曲がるストローは、真っ直ぐなストローでシェイクを飲むことが困難な娘のために作られたが、口元でグラスを支えられない人から、病気でベッドに臥せっている人、ビーチで寝そべってトロピカルドリンクを楽しむ人にまで恩恵を与えている。

1800 年代初期、カロリーナ・アントーニ・ダ・フィヴィッツアーの伯爵婦人はタイピングマシーンを発明した。徐々に視力を失う中で、愛人への手紙を自身で書く必要があったからだ。秘密の手紙を口述筆記で誰かに代筆してもらう訳にはいかなかった。この時発明されたタイピングマシーンの原理は、現代のコンピューターにおけるキーボードへと派生していく。

Eメールの初期プロトコルを考案したヴィント・サーフは難聴者であり、彼の妻もまた聴覚障害者だったため、当時は電話でやり取りすることができなかった。サーフがEメール開発に着手したひとつの理由は、自分と妻が同じ部屋にいない時につながる手段が欲しかったからだ。

他にもある。

ベビーメトロとよばれる東京メトロの Web サービスは、ベビーカーを利用する人が抱える移動の不安解消するため、エレベーターの有無や乗車位置、構内図などの情報を提供している。

しかしこのサービスはベビーカーを利用する人だけでなく、車椅子ユーザーや荷物の多いコスプレイヤーにも重宝されている。

誰かのために作ったものは案外、他の誰かの役に立つ。そんな風にして私たちは、身の回りのものをデザインし、技術を発達させ、またそのデザインによって自身を発達させていく。

1989 年に刊行された『 Apple Human Interface Guideline: The Apple Desktop Interface ( 日本語版 ) 』の、「第 1 章:設計思想 ハンディキャップを持つユーザーへの対応」でも、プログラムによるハンディキャップのサポートの、その副次的効果について言及がある。

歩道に設けられた滑り止めは杖や車椅子を利用する人々への配慮であるのにもかかわらず、乳母車を押す人の助けになったり、スケートボードで遊ぶ場合に利用されることさえあるのと同じ事です。
( P.16 第 1 章:設計思想 ハンディキャップを持つユーザーへの対応 )


誰のためのラブ・ソング ?

" 誰かのため " に作ることの力を利用する手法として、アラン・クーパーが産み出したペルソナ法は、ソフトウェアデザインの世界でもよく知られている。

ペルソナ法は、プロダクトに関わる人々を調査し、その目的やコンテキストから共通したパターンを抽出した上で概念化し、具体的な人格を生成する。そして作られたペルソナはまるで生きた人間のように扱われる。

典型的な1人を代表として抽出して、その人のためにソフトウェアを設計したらどうなるでしょうか?
その人をソフトウェアに夢中にさせてみるのです。その1人が真に代表的な人物だとすれば、そのソフトウェアに夢中になることができる似たような人々が1千万人はいるはずだということなのです

( UX Pioneers:アラン・クーパー氏インタビュー )

漠然としたユーザー群ではなく、特定の "誰かのため" に作ることは、その時々で様々なユーザーを想定してしまって、ソフトウェアの機能が混乱に陥ることを防ぐし、要件の取捨にある程度の一貫性を保つことができる。

特に制作に関わる人数が多くなりがちなソフトウェアデザインにおいて、ペルソナは要件の混乱が起きそうな時の合意形成のツールとして有効に働く。

何より " 誰かのため  "を意識することで、作る側がユーザーに同化しすぎてしまうことなく、一歩離れた視点でユーザーを理解し、ユーザーが何を理解しているかを把握することができる。

ここで重要なのは、あくまでペルソナは実際の調査結果を一旦概念化したものから生成するという部分だ。この抽象化をはさまないと、ペルソナは単なるステレオタイプになってしまったり、都合のいい複数のユーザーの性格を併せ持つものになってしまったりしてしまい、機能しなくなる。ペルソナは " 真に代表的な人物 " でないと意味をなさないのだ。( ※ )

しかし " 真に代表的な人物 " をペルソナにすることは本当に可能だろうか。

そもそも人はそんなに一貫性がない。朝と夜で平気で違うことを言っている。同じ人でも、体調によって簡単に行動が変わってしまう。

作成したペルソナに合わせてデザインされたものは、その枠からはずれたユーザーには全く適切ではないかもしれない。だからといって、すべてのコンテキストを想定してデザインすることは不可能だ。

ならばそもそも、コンテキストに依存しないデザインにするべきだろう。

たとえばインクルーシブデザインでは、リードユーザーとして、高齢者などの極端なユーザーをデザインプロセスに巻き込むが、それは、その極端なユーザーの個別のニーズに応えるためではない。

個別のニーズから多様な視点を得て思考を拡張し、包括的なデザインを目指すためだ。リードユーザーは想像力を拡張するのに必要なのであって、その人のための閉じた世界をつくるのではないのだ。

ペルソナも、本来はリードユーザーのようにあるべきではないだろうか。

たとえ合意形成の手段として利用することはあっても、少なくともデザイナーがその中に閉じた視点でデザインをしてはいけない。

最初にあげたいくつかの事例も " 誰かのため " を発端として、それをうまく汎化できたからこそ、他の誰かの役に立っているのだろう。


単純なラブ・ソング

愛され続けるラブ・ソングの影にはきっと、たくさんの歌われなくなった曲がある。誰かのために作ったけれど、誰にも使われないものもある。では一体、その違いは何なのか。

ただの偶然と自然淘汰なのか。確かに、良いものだからといって遺り続ける訳ではないかもしれない。しかし、やはり愛され続けるものには、共通点があるように思う。

ところでラブ・ソングを作ったことはあるだろうか、もしくは、ラブ・ソングが生まれる瞬間に立ち会ったことがあるだろうか。

"あの娘"への感情の発露である詩はメロディにのり、作り手は自身を離れ、"あの娘"を離れる。すると元の言葉にあったコンテキストは消失し、抽象化されていく。そして作り手は歌となって返ってくる。

抽象化といっても単に誰でも感情移入できるように、歌の登場人物を曖昧にすればいいわけではない。それでは誰の心にも届かないから。
不思議なことに、愛されるラブ・ソングには、歌詞に誰かの名前が入ってさえいるものまであるのだ。

複雑なストーリーを持たない、単純なラブ・ソングほど人の心打つのは、それが自身の心を種として湧き出た感情の表現でありながら、閉じた世界をつくらず、離れた視点で再構築されるからだろう。

もし、そんな風にソフトウェアもデザインできたなら。
そこではデザインされるものすべて、ラブ・ソングになって、愛され、歌われ続ける。

それはなんだか素敵なことじゃないか、と私は思う。

* * *

書き手:デザイン部 高取 藍

( ※ )
 ペルソナの作り方には暫定的なものから膨大な調査によるものまで様々ありますが、ここで上げているのは、少なくともクーパーのいうペルソナに対する私自身の理解です。


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